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隠岐神社の歴史

隠岐神社について

後鳥羽天皇をご祭神とし、後鳥羽天皇崩御より七百年祭の年にあたる昭和14年に創建されました。その後、昭和18年には県社に列せられております。

島民による後鳥羽天皇のお祭りは、明治の初めまでは行在所であった源福寺の境内にある後鳥羽天皇の隠岐の墓所で行われていました。この場所は現在、宮内庁の所管する隠岐山陵となっております。

創建時には、各界の名手により、歌会、神楽、お茶、琵琶、相撲、剣道、蹴鞠など、格式ある様々な奉祝行事が執り行われ、まさに国を挙げてのお祝いでありました。以来、後鳥羽天皇の御事蹟を島民のみならず島根県さらには国として後世に伝えてゆく神社として、お祭りが続けられています。

御祭神について

隠岐神社の御祭神は第82代天皇である後鳥羽天皇です。

平安時代から鎌倉時代へ

当時は平安時代から鎌倉時代へと移行してゆく過程であり、京都の朝廷のほかにも、武士勢力や寺院勢力などが各地で力をつけ混沌としはじめていました。

そうした中、後鳥羽天皇はお子様に天皇の位をお譲りになられ、この時代を治めるために上皇(もと天皇)のお立場で朝廷に関わるようになります。

また、ご活動の本拠地として設置された院では、政治のほかにも日本古来の文化・伝統を継承し高める事業を次々と起こされました。和歌所の設置や刀剣製作はその代表であり、日本文化史上の大きな転換点と言えるでしょう。
※院でのご活動に重きを置く場合は後鳥羽院と称します。

承久の乱

しかし政治の面では各勢力の対立が終息しなかったことから、承久3年(1221)に東日本の武士団をまとめ力をつけていた鎌倉幕府との戦いに至ってしまいます。この戦いが「承久の乱」であり、鎌倉幕府に敗れた朝廷側の有力者には悲運が待ち受けていました。後鳥羽上皇には出家をしていただいた上で、日本海にある離島・隠岐の海士におうつりいただくこととなりました。

そして、海士へ

海士でのお暮しは約19年間であり、その間のご活動として伝わるのは歌の道です。孤独な島にありながら京都を上回る事業を目指され、今でも人を引きつける歌を数多く残されました。

島民はいつしか後鳥羽上皇のことを親しみも込めて「ごとばんさん」ともお呼びするようになりました。

また海士の旧家の一つである村上家には、後鳥羽上皇についての家伝があり、いろいろな伝承を海士の誇りとして語り伝えていたことが伺えます。

歌聖 後鳥羽天皇

後鳥羽天皇がその生涯の中で情熱を注がれたものの中で、ひときわ輝きを放っているのが、珠玉の勅撰和歌集『新古今和歌集』です。

和歌は神話の時代にもつながり、私たち日本人の感性と暮らしを時を超えて伝えています。

後鳥羽天皇が力をいれられたのも、変化の激しい時代にあっても忘れてはならない日本の本質を形として記憶する事業であったと考えられます。

さて、新古今和歌集編纂の事業は、後の小倉百人一首のもととなる百首を撰んだ歌人・藤原定家を筆頭にして命じられました。この和歌集は、『「万葉集』『古今和歌集』に並び、今でも称されています。

また、後鳥羽天皇はおうつりになった後も都の人々と和歌の贈答を続け、都人らと紙の上での歌合せを行ったりと、創作への情熱は生涯衰えることはありませんでした。

中でも、後鳥羽天皇が島にご来島されて間もなくのころに詠まれたとされる『遠島御百首(えんとうおんひゃくしゅ)』は隠岐の代表歌集とされます。

われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波風心して吹け

この歌は島でも馴染みのある歌で、隠岐神社で行われる春と秋の例大祭では、この和歌に雅楽の調べを乗せた承久楽舞が奉納されます。

現在も、後鳥羽天皇の足跡をたどり、隠岐神社を訪れる歌人や俳人はあとを絶ちません。また、「隠岐後鳥羽院顕彰事業」として、和歌、短歌、俳句の大会も催されております。隠岐神社周辺には、数多くの歌碑や句碑が寄せられ、天性の歌人であった後鳥羽天皇の旧跡を彩っているのです。

御創建八十周年

平成31年は隠岐神社御創建80年、平成33年は後鳥羽天皇御来島800年の佳節にあたります。

後鳥羽天皇は過酷な状況を乗り越え、都から離れた文化の全く違う隠岐へお移りになった後も、自身の歩むべき道を見つけられました。その様子は隠岐で残された多くの和歌からも読み取ることができます。

後鳥羽天皇がその後生涯でお示しになられたものを今一度学び返す時に来ています。ぜひこの機会に後鳥羽天皇の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。
多様な才能をお持ちであられた御祭神の、ご利益をいただけることでしょう。

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