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親父の残したパンの味(後編)
親父の残したパンの味(後編)
-店も大きくし、店舗も増やした。結婚もし、子供もできた。俺たち家族は、ぜいたくの限りを尽くした。
すべては俺が作るパンがもたらした幸運。誰に気兼ねをすることもない。
このパンのおかげで、俺は一生金には困らない。

俺は最高のパンを作る技の、大切な部分だけは誰にも教えなかった。妻や子供にさえも。
秘密が漏れて、真似されるのを恐れていたんだ。
この幸せな人生は永遠に続くかと思っていたが、悲劇はあるとき突然に起こった。
他人に任せたくないと、長年無理をし続けたことがたたり、俺は脳梗塞で倒れてしまったんだ。
一時は体も全く動かず、口もきけない状態になっていた。
俺がいない間、誰も最高の粉の作り方が分からず、粗悪な小麦粉を使ってしまった。しかも、酵母の配合も釜の温度、焼き加減も誰も知らない。
店では仕方なく適当に作って客に出していたが、あっという間に客は俺の店から離れていった。そしてついに店は巨額の負債を抱えて潰れてしまった。
退院した俺には、もう何も残っていなかった。妻子でさえ、俺が倒れてすぐ有り金を全部持って家を出て行ってしまっていた。
バチが当たったのかもしれない。
誰にもパン作りの秘密を教えなかったことを後悔したが、もうすでに遅かった。
退院できたと言っても体も言葉も不自由な俺には、ホームレスになるしか選択する道はなかったというわけだ。
俺は夢を見ていたのかもしれない。
いっそ夢ならもっと良い夢を見たかった。本当の幸せを感じることができるような。
そういえば、マッチ売りの少女はマッチを擦ったら幸せな夢を見れて、そのまま天国に行くことができたんだったなぁ。
男は身につけたお守り袋から、いく粒かの小麦を取り出した。
-パン売りのじいさんは、麦粒をかじりました。すると、温かい家庭で家族と仲良く暮らす幸せな夢を見ることができました。そして空から天使が降りてきて、じいさんを天国に連れて行ってくれました…… なんてね。
男は薄れゆく意識の中で、麦粒を口に入れた。
……………
「先生の意識はもう戻らないのだろうか? あぁ、何と言うことだ。神様、どうかこの方をまだそちらに連れて行かないでください」
「そうだ。我々はまだ、先生に教えていただかなければならないことが山ほどあるのだから… 」
「結婚もなさらず、ご自分の人生を世の中の役に立つために、すべて捧げてこられた… このような素晴らしいお方の代わりをできるものはどこにもいない」
「趣味のパン作りから、麦と酵母菌について研究に研究を重ね、ついにあらゆるがん細胞を消滅させる効果のある物質を抽出することに成功された。先生のおかげで、今ではほとんどのがんが苦しまずに治療できるようになった」
「そして小麦の品種改良方法までも先生は考案されて、その小麦は、がんを予防する効果が高いということも証明された」
「それだけじゃない。その小麦は、どんな気候条件でも安定して育てることができるので、先生は発展途上の国々にその技術を伝え、その結果多くの人々を貧困から救ってこられたのだ」
「これほどの多くの功績を残された先生が… こんなことになるなんて」
病院のベッドに横たわる男のまわりを取り囲んだ人たちは、その男を褒め称え、病気から回復することを心から祈った。
そのとき男の目がうっすらと開いた。
「おぉ、先生!気が付かれましたか」
病室内に安堵が広がった。しかし、まだ人々は心配そうな顔でベッドの男を見つめていた。
― ここは……? 夢を見ているのか?
微かに意識が戻った男は、喋ろうとしたがどうしても声を出すことができなかった。
「先生、ここは病院ですよ。研究室で倒れていたところを発見されて、運び込まれたのです。大丈夫ですよ。軽い脳梗塞のようです」
男の助手のひとりが、安心させるために嘘を言った。
― そうか… ということは、さっきまでのが夢だったのか…
男は舌の上でころころするものに気がついた。
舌の感触で分かった。それは一粒の麦粒だった。
そうだ、思い出した。
私は朝方までひとりで研究をつづけ、とても疲れていた。今思えば、確かに体調に異常を感じていた。
一服しようと珈琲を入れているときに、なぜか昔のことを思い出したのだ。
私は本当は、生まれ故郷の島に帰って小さなパン屋をやりたかった。島の人たちにおいしいパンを食べさせてあげたかったのだ。
父の書き残した手帳を見つけたときから、パン好きの父の想いが私に乗り移ってしまったようだ。
しかしその想いは、私をパン作りのさらなる研究へと向かわせた。
パン屋をやっていたら、さっき夢に見たような人生を送っていたのかもしれない。
良かった。これで良かったのだ。私は正しい選択をした。
パンのおかげで人助けができたことは私の喜びであった。きっと父も喜んでくれているだろう。
ずっと心に引っかかっていた、もうひとつの人生を選択していたらという想いに、もう囚われることもなくなった。
私は肌身離さず持っていたお守り袋の中の、父の残した数粒の小麦を取り出した。そしてなぜだか味わってみたくなり、それを口に入れた。
その先は覚えていない。おそらくそこで意識を失い、倒れてしまったのだろう。
しかし妙だな。夢の中の私も、確か最後に麦粒を口にして…
男の意識はすでに混濁していた。
命の灯火は、もはや消えかかっていた。
― 私は今、夢を見ているのだろうか。
― 俺は今まで、夢を見ていたのだろうか。
― 私にはもうひとつの人生があったのだなぁ。
― 俺にはもうひとつの人生があったのだなぁ。
― それが最後に分かって良かった…
― それが最後に分かって良かった…
そのとき天使が舞い降りてきて、男の手をとった……

(おわり)
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親父の残したパンの味
(非)連載小説と言いながら、なんとなく毎週掲載を続けています。
こうなったら途中で途切れたくないので、できるだけ頑張ります!
今回は「絵本」っぽい感じにしました。
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長い冬がようやく終わり、地上には柔らかい日差しがあふれていた。
家々の窓は、待ちわびた春を我が家に取り込もうとするように大きく開け放たれていた。
町はずれの橋の下にある、崩れそうな段ボール・ハウスにも、春は同じように挨拶をしにやって来たのだが、それには窓やドアと呼べるものはなく、垂れ下がった古毛布がただひとつの出入り口をふさいでいた。

ここの主(あるじ)の男は、季節が移り変わったことを知ってか知らずか、湿った窮屈な空間で、ひざを抱えたままじっとうずくまっていた。
路上生活を始めて5回目の冬を越した男の体力は、春が来たからと言って回復しそうにないほどに消耗しきっていた。
観測史上最高を記録した今年の猛烈な寒波は、老いた体に重大なダメージを与えたようで、もはや動くこともままならず、時折薄れかける意識の中で、男はぼんやりと自分の人生を振り返っていた。
― 俺はもうダメかもしれないなぁ。でも、親父に比べりゃ長生きした方だ。もうこの先何も良いことなんて無いだろうし、この世に未練はねぇや。
死んだらまた親父に会えるかな?不思議だな。長いこと親父のことなんて思い出したことも無かったのに……

俺は日本海の小さな島、隠岐諸島のひとつ「海士」という島で生まれ育った。
親父は死ぬまでその島で暮らしていた。
無口で金に縁がなく、あまりぱっとしない人間で、うちが貧乏なのはこの人が頼りないからだと、俺はこども心に親父のことを馬鹿にしていた。
親父の唯一つの生きがいは… 見かけによらない洒落た趣味だけど、自分でパンを作ること。
しかも小さな畑で小麦を栽培し、発酵させる酵母も自分なりに工夫して作っていたほどだ。
子供のころの俺は他のパンなど食べたことが無かったから比較はできなかったが、親父が焼くパンの香りとその味は好きだった。
親父は俺が十二の時に死んだ。
葬儀でお袋が、棺の中に親父が育てた小麦を入れてやった。
俺はこっそり、その中の1つまみだけを自分のお守り袋に忍ばせた。

親父が死んでからは、お袋が女手ひとつで俺を育ててくれた。
学校を卒業したら都会に出て、俺がお袋にもっと良い暮らしをさせてやろうと思っていたんだけど、体に染み付いた貧乏は、そう簡単には拭い取れはしなかった。
都会に埋もれ世間を恨み、死んだ親父を恨みながら悶々と暮らしていたそんなある日。
偶然親父の書いた手帳を遺品の中から見つけた。
そこには親父が長年かかって完成した、最高のパンの作り方が書いてあった。
最高のパンを作るための小麦の育て方、粉の轢き方、酵母の作り方、パンを焼くかまどの作り方、焼き方、などが細かく書かれていた。
俺は子供のころ嗅いだ、親父の焼くパンの香りを思い出していた。
懐かしさとともに、何かに導かれるように、俺はなけなしの金をはたいてその手帳に書いてあるとおりに小麦を育て、パンを作ってみようと思った。
実家の畑でお袋に手伝ってもらい、小麦を育て、俺も時々島に帰ってはかまどを作ったり酵母を作る研究をした。
かなり苦労して時間が掛かったが、出来上がったパンは想像以上にすばらしい香りと味だった。それまで食べたパンとは明らかに違う別の食べ物のようだった。
俺は一世一代の大勝負に出た。
勤めていた会社を辞め、借金をして自分で小さなパン屋を開いた。
そしてすぐに俺の作ったパンは想像した以上の評判を呼び、マスコミにも取り上げられるほどになった。
(つづく)
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